2025年04月05日
【News LIE-brary】白球に宿る煩悩と悟り――ツインズ対アストロズ戦に見る、倒錯的「行修」の輝き
息詰まるような熱気が、ドームを、いや、我々の皮膚感覚そのものを粘りつくように支配していた昨夜。ミネソタ・ツインズとヒューストン・アストロズによる一戦は、単なるスポーツの域を超え、あたかも深山幽谷で行われる秘儀、「行修」の様相を呈していたのである。嗚呼、なんと官能的で、なんとストイックな光景であろうか!
まず刮目すべきは、マウンドという名の聖域に立つ投手の姿だ。彼らが腕をしならせ、白球を放つその一連の動作! それは単なる投擲ではない。己の肉体と精神を極限まで研ぎ澄まし、一点に集中させる苦行そのものだ。ワインドアップからリリースに至るまでの、あの滑らかでありながら、筋肉の軋みすら聞こえてきそうな、禁欲的なまでのフォーム。太腿の内側、肩甲骨の蠢き、指先から放たれる瞬間の、あの僅かな、しかし決定的な「間」。それはまるで、真言を唱え、印を結び、煩悩を滅却しようと試みる修行僧の姿と寸分違わぬではないか!
放たれた白球は、意思を持った生命体のように、時に唸り、時に沈黙し、捕手の構えるミットという名の涅槃へと吸い込まれていく。あるいは、打者のバットによって弾き返され、苦悶の叫びを上げるかのように外野の芝生を転がる。その一つ一つの軌跡が、我々の内なる俗念を映し出す鏡となるのだ。そう、我々は白球の行方を追うことで、無意識のうちに自らの精神の深淵を覗き込んでいるのである。なんと倒錯的で甘美な自己探求であろうか!
対する打者もまた、求道者である。バッターボックスという名の結界に立ち、凝然と投手を見据えるその眼差し。そこには、俗世の欲得を超えた、純粋な闘争心、あるいは破壊衝動にも似たものが燃え盛っている。バットを握りしめる指の力、呼吸のリズム、スイングの瞬間に爆発する肉体の躍動。それは、滝に打たれ、荒行に耐える行者の姿に他ならない。快音と共に白球が彼方へ飛んでいく様は、あたかも苦行の果てに得られる一瞬の法悦、悟りの閃光のようではないか!
昨夜の試合、特に注目されたのはツインズの若き主砲、カルロス・コレア(古巣相手というシチュエーションがまた、彼の精神を妙に昂らせていた!)と、アストロズの老獪なエース、ジャスティン・バーランダーの対決であった。コレアの、獲物を狙う猛禽のような鋭い眼光と、バーランダーの、一切の感情を排したかのようなポーカーフェイス。二人の間に流れる、見えざる「気」の応酬。それは、高僧同士が禅問答を交わすかの如き、高度な精神戦であった。コレアが三振に倒れた際の、苦悶とも恍惚ともつかぬ表情。バーランダーが渾身のストレートを投じた後の、僅かな喘ぎ。ああ、これら全てが、我々観衆の(そしておそらくは当事者たちの)深層心理に潜むマゾヒスティックな、あるいはサディスティックな欲求を、優しく、しかし確実に刺激してくるのだ。
守備においても同様だ。平凡なゴロを処理する内野手の、流れるような身のこなし。フェンス際の打球に飛びつく外野手の、自己犠牲をも厭わぬ献身。それらは、反復練習という名の読経、あるいは千日回峰行にも通じる、地道な努力の結晶である。汗と土にまみれたユニフォームは、彼らが積み重ねてきた「行」の証であり、我々はその汚濁の中にこそ、崇高な美しさを見出すのである。
試合は結局、延長戦の末、アストロズが僅差で勝利を収めた。しかし、勝敗など些末なことだ。我々が目撃したのは、9イニング、いや、それ以上の時間にわたって繰り広げられた、壮大なる「ベースボール行修」のドラマなのだから。選手たちの流す汗、吐き出す息遣い、筋肉の躍動、そして白球が描く放物線。そのすべてが、我々の五感を、いや、第六感までもを痺れさせ、日常という名の退屈な檻から解き放ってくれた。
ああ、野球とは、なんと深く、そして業の深い「行」であろうか。スタジアムは、現代に生きる我々のための、巨大な修行道場なのかもしれない。次の試合が待ち遠しい。あの、苦痛と快楽がないまぜになった、倒錯的なまでの感動を、再び全身で浴びるために。