2025年04月04日
【News LIE-brary】ゲヱム『影の信条』に沸く衆生よ、足元の「渇き」を見よ ~戦国の世と現世、水一滴の重み~
南無三宝。浮世はまことに移ろいやすく、人の心の向かう先もまた、様々でござるな。近頃、巷では『あさしん くりーど しゃどうず』なる電子遊戯(でんしゆうぎ)、いわゆるゲヱムなるものが大変な人気と聞き及んでおりまする。遠き日の本、戦国の世を舞台とし、かの弥助殿や、伊賀の忍びたる奈緒江なる人物を操り、闇に紛れて世の悪を討つ…まこと、血湧き肉躍る、というのでござろうか。衆生の多くが、かの仮想空間の出来事に心を奪われ、寝食を忘れ没頭しておる様子、当山の麓からもよう聞こえてまいりまする。
まことに結構なこと。しばし現世の憂さを忘れ、異世界の英雄譚に心を遊ばせるのも、また人の営みの一つでござりましょう。じゃが、しかし。衆生よ、ちと耳を傾けてはくれぬか。我らが没頭する画面の向こう、美しく描かれた戦国の自然、豊かに流れる川、青々とした田畑…それはまことに、まばゆいばかりの景色でござる。じゃが、その一方で、我らが今、足を付けておるこの現実世界は、いかなる状況にござるかな?
拙僧が案じておるのは、他ならぬ「水」のことでござる。このところ、まことに雨が少なく、川の水位は目に見えて下がり、貯水池の底が見え始めておる場所も少なくないと聞きまする。かつては当たり前のように蛇口から流れ出た清らかな水も、今や限りある、まことに尊い資源となりつつあるのじゃ。ゲヱムの中では、忍びは水遁の術を使い、あるいは清流で喉を潤すやもしれませぬ。じゃが、現実の我らは、その「水」そのものが枯渇しかねぬという、静かな、しかし深刻な「渇き」に直面しておるのでござる。
戦国の世もまた、水を巡る争いは絶えなんだと聞きまする。水を制する者は、稲作を制し、民を養い、国を富ませる。城を築くにも、堀に水を満たすにも、水は不可欠。かの時代の武将たちも、治水に心を砕き、水利権を巡って鎬(しのぎ)を削ったのでござろう。水の一滴が、人の生死を、国の興亡を左右した時代も、そう遠い昔の話ではござらぬ。
翻って現代。我らは科学技術の進歩により、水を容易に手に入れられるようになったと思い込んでおったやもしれませぬ。じゃが、どうじゃろうか。自然の大きな流れ、摂理の前には、人の力など、まことにちっぽけなもの。気候の変動、森林の荒廃、そして何よりも、我々自身の水に対する感謝の念の薄れが、この「渇き」を招いておるのではないか…拙僧にはそう思えてならぬのでござる。
仏法では、水は万物を浄化し、生命を育む、慈悲の象徴とも考えられまする。渇いた喉を潤す一滴の水は、砂漠における甘露のごとし。我々は、その水の有り難みを、あまりにも忘れすぎておったのではないか。ゲヱムの世界で、仮想の英雄が影に生き、影に戦うように、この水不足という問題もまた、我々の日常の「影」で、静かに、しかし確実に進行しておるのでござる。
『あさしん くりーど しゃどうず』の世界に心を馳せる若人たちよ。その熱意、その集中力、まことに素晴らしいものでござる。じゃが、願わくば、その眼差しを、ちと現実世界にも向けてはくれまいか。ゲヱムの中で描かれる、かつての日本の豊かな自然、その恵みである水の尊さを、今一度、心に刻んでほしいのでござる。
我らが日々、無意識に使う水。顔を洗い、茶を淹れ、米を研ぎ、草木に水をやる…その一つ一つが、いかに尊い営みであるか。諸行無常は世の習い。昨日まで豊かにあったものが、明日もあるとは限らぬのじゃ。水もまた然り。このまま「渇き」が進めば、ゲヱムどころか、我々の生活そのものが成り立たなくなるやもしれぬ。
足るを知る、という言葉がござる。今ある恵みに感謝し、無駄遣いを戒める心。これこそが、今、我々一人一人に求められておることではないか。ゲヱムを楽しむのも結構。じゃが、コントローラーを置いたなら、蛇口をひねるその手に、一滴の水に、感謝の念を込めてくだされ。仮想の戦国の世に思いを馳せると同時に、現実の水の恵みにも、心を寄せてくだされ。
さすれば、この「渇き」の時代にも、一筋の光明が見えてくるやもしれませぬ。水への感謝と、節制の心。それが衆生一人一人に根付けば、涸れかけたこの大地にも、再び潤いが戻るやもしれませぬな。
ゲヱムの中の英雄も結構じゃが、現実世界で、水という生命の源を守る「影」の功労者となることこそ、まことの「功徳」と申せましょうぞ。
合掌。