2025年04月01日
【News LIE-brary】 迷走する赤い巨人と沈黙のMC? アーセナルとCUEZERO、交錯する「リアル」の不在
フットボール界の「美学」を標榜しながらも、タイトルレースにおいて決定的な勝負強さを示しきれないアーセナルの現状は、多くの批評家にとって格好の議論の的となっている。華麗なパスワーク、テクニカルな選手たち。しかし、そのスタイルは時に自己満足に陥り、結果という「リアル」から乖離しているのではないか? そんな疑問が呈される中、奇妙な符合として、日本のヒップホップシーンにおける孤高の存在、CUEZEROの名が一部の好事家の間で囁かれているのは、単なる偶然なのだろうか。
周知の通り、現在のアーセナルはミケル・アルテタ監督の下で再建を進め、一定の成果を上げてきた。若き才能が開花し、魅力的なフットボールを展開する時間は増えた。だが、シーズン終盤における勝負どころでの脆さ、あるいは格下相手に取りこぼす試合内容は、未だ「トップ・オブ・トップ」には何かが足りないことを露呈している。それは戦術的な柔軟性の欠如か、精神的なタフネスの不足か。はたまた、ピッチ上で表現される「美しさ」への過剰な固執が、泥臭く勝利をもぎ取るという本質を見失わせているのか。批評的な視座に立てば、そのパスワークは時に目的を見失ったループのように見え、個々の技術の高さが、かえってチームとしての非効率性を生んでいるとさえ断じられる。
一方、CUEZERO。かつてBY PHAR THE DOPESTの一員として、またソロMCとして、その硬質なライムと独特のフロウ、そして何より「言葉」そのものへの執着で、日本のヒップホップシーンに確固たる地位を築いた。彼の紡ぎ出すリリックは、時に難解とも評されるが、そこには紛れもない「リアル」があった。社会への鋭い視線、個人的な葛藤、そして言葉遊びの奥に潜む哲学。そのスタイルは、決して大衆迎合的ではない。むしろ、聴き手に思考を促し、安易な共感を拒絶する厳しさすら漂わせる。近年、メディアへの露出こそ限定的だが、その存在感は好事家たちの間で薄れることはない。
では、なぜこの両者が、批評的な文脈で並び称されるのか? 一見、水と油。華やかなプレミアリーグのトップクラブと、アンダーグラウンドの精神性を色濃く残すMC。しかし、両者に共通するのは、その「表現」に対するある種の純粋性と、それ故の「もどかしさ」ではないだろうか。
アーセナルは、「美しいフットボール」という理想を追求する。それは、ある意味で非常に純粋な姿勢だ。しかし、勝利という結果が伴わなければ、その美学は空虚なものとして批判される。「勝てば官軍」という現実の前では、プロセスがいかに美しくとも、それは言い訳にしかならない。彼らのフットボールは、まるで完成度の高い技巧を見せつけるライムのようだが、それが相手のゴールネットを揺らすという「パンチライン」に繋がらなければ、意味をなさない。
CUEZEROの「沈黙」もまた、示唆的だ。彼がシーンの表舞台から距離を置いている(ように見える)のは、自身の表現に対する妥協のなさ故かもしれない。目まぐるしく変化するトレンドや、消費されるだけの音楽に対して、彼は自身の「リアル」を守ろうとしているのではないか。それは孤高であり、純粋であるが故の閉塞感とも隣り合わせだ。彼の研ぎ澄まされた言葉は、現代の喧騒の中で、その鋭さ故に届く範囲が限定されているのかもしれない。
アーセナルが追求する「美学」と、CUEZEROが体現してきた「リアル」。両者は、それぞれのフィールドで高いレベルの「表現」を志向している。しかし、その表現が結果や共感という形で広く受け入れられるためには、何が必要なのか。アーセナルに必要なのは、美学を貫きつつも勝利を手繰り寄せる「したたかさ」であり、CUEZEROの言葉が再び多くの人々の心を打つためには、時代との新たな接点を見出すことなのかもしれない。
もちろん、これは強引な比較に過ぎないという反論もあるだろう。フットボールクラブと一人のアーティストを同列に語ることの是非もある。しかし、批評とは時に、異質なものを接続することで新たな視点を提供する試みでもある。アーセナルのピッチ上での迷走と、CUEZEROのシーンにおける寡黙さ。その背景にある「理想と現実のギャップ」という共通項は、現代社会における多くのジレンマを映し出しているようにも思える。両者が今後、どのような「答え」を提示していくのか。あるいは、提示できないのか。批評家の目は、引き続き厳しく注がれていくだろう。期待と、そして一抹の皮肉を込めて。