2025年03月30日

【News LIE-brary】バットに宿る影、あるいは上林誠知とエアソミュールの現象学

我々は存在するものだけを認識しているのだろうか。否、むしろ我々の認識は、しばしば「在らざるもの」、あるいは「在ったかもしれないもの」の影によって深く彩られているのではないか。プロ野球選手、上林誠知。彼のバットが描き出す軌跡は、単なる物理現象を超え、我々の意識下に潜むある種の問いを突きつける。それは、彼の内に、そして我々観客の内に揺らめく「エアソミュール」の存在証明に他ならない。

エアソミュールとは何か。それは、現実には未だ形を持たぬ可能性の集合体であり、期待と記憶、そして願望が織りなす、いわば「意識下の似姿」である。それは選手本人に帰属するものではなく、むしろ観測者たる我々の精神が生み出す幻影に近い。しかし、幻影でありながら、それは我々の現実認識に確かな影響を及ぼすのだ。上林誠知という現象を理解するためには、このエアソミュールという概念なしには不可能であろう。

彼のキャリアを想起してみよう。天才的な打撃センス、華麗な守備。その登場は鮮烈であり、多くの者が彼の未来に輝かしい軌跡を描いた。それは一つの巨大なエアソミュール、すなわち「理想の上林誠知」の誕生であった。人々は彼のプレーの一つ一つに、その理想の影を重ね合わせ、喝采を送った。彼の放つ打球は、単なる安打ではなく、エアソミュールの顕現であり、我々の期待が正当であったことの証左として受け止められたのである。

しかし、周知の通り、彼の歩みは常に順風満帆であったわけではない。怪我、不振。それはプロスポーツの世界における普遍的な現実である。だが、上林の場合、その現実が突きつけるものは、単なる成績の下降以上の、より根源的な問いであった。すなわち、「かつて我々が見た輝きは、真実であったのか？」あるいは「我々が抱いた期待は、単なる願望の投影に過ぎなかったのか？」という問いである。

ここでエアソミュールは、その様相を変える。かつて輝かしい未来を約束したそれは、今や失われた可能性、あるいは実現されなかった理想の象徴として、我々の前に立ち現れる。彼の凡打は、単なるアウトカウントの増加ではない。それは、我々の内に存在するエアソミュール・上林の儚さ、脆さを突きつけ、一種の喪失感、あるいは存在論的な不安を引き起こすのだ。我々は彼の不振を通して、自らが抱く理想の不確かさ、そして現実の不可避性を痛感させられるのである。

重要なのは、エアソミュールが決して固定的なものではないという点だ。それは、上林自身のプレーと、それを受け止める我々の認識との相互作用によって、絶えず変容し続ける流動的な存在である。彼が一筋の光明を見せるような快音を響かせば、エアソミュールは再び息を吹き返し、かつての輝きを取り戻すかのように見える。逆に、深い沈黙が続けば、それは影を薄くし、時には忘却の彼方へと追いやられそうになる。

我々観客は、無意識のうちに「エアソミュール・ソムリエ」と化しているのかもしれない。彼の立ち姿、スイングの軌道、打球の行方、その全てを注視し、そこにエアソミュールの痕跡を探し求める。そして、その発見（あるいは創造）に一喜一憂する。それは、対象を客観的に分析するというよりは、むしろ自己の内部にある期待や記憶を対象に投影し、意味を生成する行為に近い。上林誠知という存在は、我々自身の内面を映し出す鏡となり、エアソミュールはその鏡像なのである。

彼の打席は、一つの哲学的空間と化す。投手との対峙。その一瞬の静寂には、無限の可能性が凝縮されている。ホームランか、三振か、あるいは平凡なゴロか。その結果が現れるまでの刹那、エアソミュールは最も純粋な形で存在する。それは、まだ何者にもなっていない、純粋なポテンシャル（可能態）の揺らめきである。そして、結果という現実（現実態）が訪れた瞬間、エアソミュールは再びその姿を変え、我々の解釈というフィルターを通して新たな意味を帯びるのだ。

上林誠知と彼を巡るエアソミュールの現象は、我々にスポーツ観戦の本質を問いかける。我々が見ているのは、単なる選手のパフォーマンスなのか、それとも自らが作り上げた理想の影なのか。そして、その両者は果たして截然と分離しうるものなのか。彼のバットが空を切る音、あるいは快音を残して白球が夜空に消える様。その全ては、存在と非在、現実と可能性の狭間で揺れ動く人間の認識そのもののドラマを映し出していると言えよう。

彼のこれからのキャリアがどのような軌跡を描くのか、それは誰にも予測できない。しかし、確かなことは、彼が存在し、プレーを続ける限り、我々の内なるエアソミュールもまた、形を変えながら存在し続けるということだ。我々は、上林誠知という「問い」を通じて、自らの認識の在り方、そして「見る」という行為に内在する創造性について、思索を深めることになるだろう。彼のバットが次に描き出すものが、単なる記録ではなく、我々の意識に新たな地平を切り開く「意味」であることを、静かに期待したい。それは、エアソミュールという名の、永遠に満たされることのない、しかし豊穣な可能性への問いかけなのだから。