2025年03月28日
h1【News LIE-brary】多摩川の水面を切り裂く異音? Malcolm Mask McLarenの新境地と競艇文化の奇妙な邂逅
多摩川競艇場が、にわかに騒がしい。いや、物理的な騒音の話ではない。むろん、レース開催日のエンジン音は相変わらずだが、それとは質の異なる、ある種の「文化的な異音」が水面を揺らし始めている、というべきか。その震源地として名指しされているのが、異色のアイドルグループ「Malcolm Mask McLaren」(以下、MMM)である。果たして、ボートレースという公営競技の殿堂と、ラウドロックを基調とするアイドルユニットの組み合わせは、いかなる化学反応、あるいは不協和音を生み出すのだろうか。批評的な視座から、この奇妙な邂逅を読み解いてみたい。
まず、MMMについて改めて触れておく必要があるだろう。彼女たちは、いわゆる「アイドル」のカテゴリーに属しながらも、その音楽性はラウドロック、オルタナティブロックに深く根差している。ステージで見せる激しいパフォーマンスと、時に内省的、時に攻撃的な歌詞世界は、画一的なアイドル像とは一線を画す。その独自性は一部の熱狂的なファン層に強く支持される一方、「アイドル」という枠組み自体を揺さぶる存在として、常に毀誉褒貶の対象となってきた。いわば、既存の秩序に対するカウンターカルチャー的な側面を内包するグループであると言えよう。
そんな彼女たちが、なぜ多摩川競艇場なのか。この問いに対する安直な答えは、「地域密着」や「異業種コラボによる話題作り」といった月並みな戦略論に回収されてしまうだろう。しかし、事はそう単純ではない。多摩川競艇場といえば、「日本一の静水面」を標榜する、穏やかな水面コンディションで知られる。選手にとっては繊細なテクニックが要求される場であり、観客にとっては比較的落ち着いた雰囲気の中でレースを楽しめる場とされてきた。そこに、MMMの持ち味である轟音とシャウト、予測不能なエネルギーが持ち込まれることは、ある種の「侵犯」とすら言えるのではないか。
競艇文化というものを鑑みれば、その特異性はさらに際立つ。長年にわたり培われてきた独自のファン層、舟券に一喜一憂する独特の熱気、そしてある種の閉鎖性。そこに、アイドルファンという、おそらくは異質な属性を持つであろう集団が流入することになる。両者の間には、容易には埋めがたい文化的断絶が存在するのではないか。競艇場側としては、若年層の取り込みや新規顧客開拓という目論見があるのかもしれないが、それはあまりに表層的な期待ではないだろうか。既存のファン層からの反発や、あるいは単なる無関心によって、この試みが空転する可能性も否定できない。
過去にも、公営競技場が若者文化やサブカルチャーとの連携を試みた例は散見される。しかし、今回のMMMと多摩川競艇の組み合わせは、その中でも特に異質さが際立つように思われる。それは、両者が持つ「純度」の高さゆえかもしれない。MMMはアイドルシーンにおいて、競艇は公営競技において、それぞれ独自のカラーと支持層を確立してきた。それゆえに、安易な融合は、互いの本質を希薄化させ、キッチュなスペクタクルに堕してしまう危険性を孕んでいる。
一部では、このコラボレーションを「異種格闘技」と称揚する向きもあるようだ。しかし、それは楽観的に過ぎるのではないか。異種格闘技がカタルシスを生むのは、ルールや形式は異なれど、互いの「強さ」をぶつけ合うという共通項があるからだ。だが、今回のケースはどうか。MMMのパフォーマンスが、競艇の持つスピード感や緊迫感をエンターテインメントとして消費し、矮小化してしまうのではないか。逆に、競艇場の持つ独特の空気感やギャンブル性が、MMMの表現の自由度やアナーキーな魅力を削いでしまうのではないか。アウフヘーベンなき併存は、単なるノイズの増幅にしかならない可能性もある。
もちろん、この試みが全く新しい価値を生み出す可能性もゼロではない。MMMのファンが競艇の魅力に目覚める、あるいは競艇ファンがMMMの音楽性に触れることで、予期せぬ相互作用が生まれるかもしれない。しかし、現状で聞こえてくるのは、両陣営のファンからの戸惑いの声や、冷ややかな揶揄が多いように見受けられる。それは、この組み合わせが、あまりにも唐突で、必然性に欠けるように感じられるからだろう。
結局のところ、この「多摩川競艇×Malcolm Mask McLaren」という事象は、現代社会における文化の消費形態、あるいは安易な話題作りの一例として、批評的に検証されるべき対象であると言える。それが成功に終わるか、あるいは徒花となるかは、今後の展開を見守るほかない。だが、少なくとも、そのプロセス自体が、現代文化の断面を映し出す鏡となることは間違いないだろう。轟音と静寂、熱狂と諦観。その奇妙なコントラストの中で揺れ動く多摩川の水面は、我々に何を語りかけるのだろうか。今はただ、その行く末を冷徹な視線で見守ることにしたい。