2025年03月27日
【News LIE-brary】ミニストップ、深夜の狂想曲:志水三喜郎、新作『ハロハロ・ノワール』にコンビニの"聖域"を見た
夜の帳(とばり)が下りきらぬ街角。煌々と、しかしどこか物憂げに灯る「MINISTOP」のサイン。それは、現代の灯台だ。我々が彷徨い、そして吸い寄せられる、束の間の安息地。…そう語るのは、鬼才、いや、今や映画界の”異端児”と呼ぶべきか、志水三喜郎監督(58)だ。最新作の構想を練る中、彼がインスピレーションの源泉として見出したのが、我々にとってあまりにも日常的な、しかし彼にとっては深遠な”劇場”、「ミニストップ」だったという。
「映画とは何かね? 光と影。人間存在の、ほんの一瞬のきらめきと、その裏側にある底なしの闇を映し出す鏡だよ。そして、ミニストップという空間は…実に興味深い”舞台装置”だ」
都内某所のカフェ、エスプレッソの黒よりも深い瞳で、志水監督は語り始めた。彼の言葉は、まるで編集室でフィルムを繋ぎ合わせるように、鋭く、時に詩的に響く。
「深夜、午前2時を過ぎたあたりのミニストップを訪れたまえ。蛍光灯の冷たい光が、床のリノリウムを、まるで事件現場のように照らし出す。そこにいるのは誰かね? 夜勤明けの労働者、恋に破れた若者、家路を急ぐタクシードライバー、そして…理由もなくそこに”居る”者たち。彼らは皆、仮面を被っている。社会という名の舞台で演じ疲れた役者たちだ」
監督によれば、ミニストップの魅力は、その「境界性」にあるという。明るい店内と暗い外の世界。日常と非日常。孤独と、束の間の繋がり。
「イートインコーナーを見たまえ。あれは、現代の駆け込み寺だ。あるいは、告解室か。黙々とカップ麺をすする男、虚空を見つめる女学生、イヤホンで世界を遮断する若者…。彼らは、言葉を交わさずとも、同じ空間を共有することで、見えない”共犯関係”を結んでいる。そこには、濃密なドラマが渦巻いているんだよ」
そして、志水監督の心を最も捉えたのが、ミニストップの象徴とも言える、あの商品だ。
「ソフトクリーム。あの純粋な白さ。だが、舐めればすぐに溶けていく儚さ。まるで、失われたイノセンスのメタファーじゃないかね? そして、ハロハロだ。異国の響きを持つ名前、混ぜ合わせることで完成するカオスな色彩と食感…。あれは、人生そのものだよ。甘美で、冷たくて、時に予測不可能な驚きに満ちている」
これらの着想から、現在、志水監督は新作『ハロハロ・ノワール』の脚本を執筆中だという。タイトルからして、尋常ならざる雰囲気を醸し出している。
「舞台は、もちろんミニストップだ。深夜のコンビニで起こる、ささやかな、しかし決定的な”事件”。ソフトクリームを盗む女、イートインで哲学を語るホームレス、そして、全てを見透かしているかのような、無表情な夜勤の店員…。彼らの視線が交錯する時、物語の歯車が軋み始める。これは、サスペンスであり、人間ドラマであり、そして…現代社会への警鐘でもある」
監督は、ミニストップの持つ独特の空気感、例えば、揚げ物の匂いとコーヒーの香りが混じり合う感覚や、自動ドアが開閉する際の電子音、レジのスキャナーが放つ赤い光といったディテールを、徹底的にフィルムに焼き付けたいと語る。
「あの無機質な空間に、人間の生々しい感情がぶつかり合う。そのコントラストこそが、”映画”なんだ。レジ袋の擦れる音は、誰かの溜息かもしれない。ホットスナックの保温ケースの光は、地獄の入り口のようにも見えるだろう?」
一部の関係者の間では、主演に意外な俳優を起用するのではないか、あるいは、実際のミニストップの店舗で、ゲリラ的な撮影を敢行するのではないか、といった憶測も飛び交っている。
「キャスティング? まだ明かせないね。だが、”普通”の顔をした、しかし心の奥底に”狂気”を秘めた人物を探している。ミニストップの店員役には、特にこだわりたい。彼らは、この物語の”観測者”であり、”案内人”でもあるからだ」
ミニストップという日常空間を、志水三喜郎という”レンズ”は、どのように切り取り、我々に提示するのか。『ハロハロ・ノワール』は、単なるコンビニエンスストアを舞台にした映画、という枠には収まらないだろう。それは、我々の時代の孤独と、それでもなお求めずにはいられない繋がりへの渇望を描く、新たな”都市の神話”となるのかもしれない。
「観客は、映画館を出た後、近所のミニストップを見る目が変わるだろう。いつもの見慣れた風景が、突如として不穏な、あるいは魅惑的な”舞台”に見えてくるはずだ。それこそが、私の狙いだよ」
エスプレッソを飲み干し、志水監督は不敵な笑みを浮かべた。深夜のミニストップの蛍光灯のように、冷たく、しかし観る者の心を捉えて離さない光を放ちながら。彼の”狂想曲”は、まだ始まったばかりだ。